昭和47年5月9日 朝の御理解
御理解第74節「かわいいと思う心じゃ神心じゃ」
かわいいという心。神心と。神心とはどういうような心かと。私はお道の信心をもし人が金光教は何を説くかと、何を教えるかと、問われたら、金光教では神心を説くのだと。神心になる事を教えるのだ言えるのだと思いますね。仏教者ならば必ず慈悲を説くというでしょう。キリスト教者ならば必ず、神の愛を説くというでしょう。ね。金光教の信者、真とか実意とか、色々に言われておりますけれども、私は金光教では神心を説くのだといったが一番適切のように思うのです。そこでその神心というのはいわゆる神様のお心。ね。天地金乃神様の心を説くのだと。その中にやはり慈悲の心もあれば愛の心もある。けど、それだけではちょっと舌足らずの感じがする。神心、神の心ということになると、神の心の中に慈悲もあれば、愛もあるのであって、そして、慈悲愛では説きえない、何と申しますか、真実の守りというかね、を、が、含まれておるように思う。
なら、神様のお心というのはまあ一言で言えれるわけはないのですけれども、昨日から頂いております御理解のように、もう深い事限りがない。神様のお心は。広い事、また、限りがない。純粋度、純粋、まあそれを清いと言う風にいってもよい。昨日の御理解ではいよいよ清まると言うことを頂きましたが、もう、純粋さ、広さ深さと、というものが、私は神心をもし、一言で言わなければならんならそういう心だと思う。そこで私共もやはり、その神の心を心としてというのですから、そういう心にならせて頂く精進をするという事が金光様のとりもなおさず御信心だと言う事になるのです。どれほどに深さが出来てきただろうか、どれほどに広さが出来てきただろうか、どれほどに自分自身が分かるほどしの清まった、ね、昨日、「見ること見ること自分を見ること」と有名な高橋正雄先生のお言葉なのですけれども、そう言われてもいかに見ても見つめても自分が分らなかったら仕方がないですね。それは浅い所は分りましょう。けれども、これがおかげの受けられないもとだといったようなものが分らなかったらつまりません。そこでやはり見ること見ることの前にまず本気で清まらなければならないという事。清らかな、いうなら済み切った水の中にどういうものが泳いでおるかどういうものがあるかは直ぐ分るように結局清まる事なんだと。
一つ、神の心を心としてという信心生活の一つの心行というものがね、そこに焦点を置かれてそのところをお互いが実意丁寧に、分らせて頂くと。そこのところを実意丁寧神信心していくという事になるところからいよいよ深さまたは広さが出てくると思うのです。勿論深さ広さ、または、清まるといったような、限りなく、いわば美しゅうなるという事などが段々身に付いてくることになるとどういう事になるかと。おかげがいよいよ広いものになり、いよいよそのおかげの意味というものが非常に深さを増してくる。
そこに、いわゆる神様のお心がいよいよ分からせてもらう。その神様の心が分らせてもらうところから、出てくる答えというものは、ね、いよいよ、あれもおかげでありこれもおかげでありということになるのです。浅いところで感じますと、例えば信心しよってこげな事が起こったとか。それをまあ一般では難儀と申します。信心しよってもこんなに間違う。それは浅いところで見るとそうなのです。やはり。けれども深い心で持ってみるとそれはもう神様のお心の細やかな働きというものをです、身を持って感じる事が出来る。神様の御都合に間違いない。それを信じる事が出来る。これは信心が段々深くなってまいりませんと、そういうおかげは頂かれません。
信心は悟りだという風に言われております。その信心は悟り確かにそうなのでしょうけれども、その悟り、悟らせて頂いた事がただ自分自身の心が楽になる。いわゆる達観すると申しますね。どんな場合でもすましておれれるというでしょうか、達観する。それは一つの事をこういうものだと悟った時にいうなら難儀を難儀と感じないほどしの心が生まれて来る事だけでも事実です。本然として悟らせてもらうと。けれども私が思うのに自分一人が助かる、自分一人が楽になるという達観。いわゆる悟りではね、これはいうなら、金光様の御信心を頂かせて頂いて思うことですけれども、あんまり対した事ではないと思うのです。
何時も、仏教が、キリスト教やらが私の説くところのその対象を担って真に相済まないのですけれども、お釈迦様が様々な神様を研究されたり、信心なさったり修行を成さったけれども、どうしても本当の神というものを分られることが出来なかった。そこで、菩提樹の下に座られて、ね、何年間という長い間をじっといわゆる、何ていうですかね、座り抜かれたのです。そこで翻然としたものが、生まれてきた。そこから仏教の誕生があるわけです。ね。それは大変なやはり修行だとこう思うですね。そしてそれは素晴らしい信心、素晴らしい天地の法則と思われる、その、まあ、徹したものですかね、そういう、徹しきるところから徹した状態になる事が出来ておると。世の中を見る事が出来るようになられたり、そこには例えば、病気とか死ぬるとかといったようなお釈迦様の一番問題点になっておったものがです、解決してきたわけです。
お釈迦様だけではありません。その仏教徒の方達のほとんどがそういう悟りを開かれて仏教により助かりを得られておる。ね。日本で言う親鸞上人様もそうであります。いうなら天地の大愛とでも申しますか、どういう人間でも南無阿弥陀仏を唱えればあの世での助かりは間違い無いという風に悟られる。ところがその、この世での助かりというものもです、そこのところを辿らせて頂いた人達がね、確かに自分の心の中にいわゆる達観ですね、悟りというその、自分だけは楽になれれる、いわば、ものが開けてくるのですけれども、金光大神が言われるようにです、おかげは和賀心にありというようなおかげに一つもなっていないということ。
素晴らしい徹した学問、徹した言葉、教えに皆が憧れて沢山な教えを受ける人があったけれどもです、ね、自分の家とか自分の家内とか子供達が助かっていないでしょうが。お釈迦様において然り、親鸞上人様において然りです。ただその教えの素晴らしさに集まってきた人達はそういうところを行じるところから一つの達観的なものが生まれてくる。昨日の佐田さんところのお祭り、いわゆる久留米支部の御大祭にお話を申しましたが、ね、「良し悪しを捨てて置きあがりこぼしかな」と。これは白隠(?)の唄でしょうね。「良し悪しをすておきあがりこぼしかな」と。
だからその世の中の無常有情と申しましょうかね、そういうようなものをかな繰り捨てるという事。そこに、自分の助かりがあるのだと。ね。なるほど、お釈迦様が菩提樹の下で開かれたというのはそういう事であった。ね。達磨大師が七年間ですかね、壁に向かって座りぬいて開かれたのはそういう事であったろう。だから、まあ大変な事なんです。あれもこれも捨て切ってしまう。もう忘れ切ってしまう。良し悪しも良い事も悪いことも一切を捨ててしまう。そこに自分の助かりがある。だから、そういう助かりを求めて来る人達はその事の行の上に立たせて頂く時に確かにそういう助かりがあるけれども、それが他人がね、それに潤うていく助かっていくという事がないです。そういう例えば境地が開けてきたら家内が助かる、子供が助かる、自分の周囲の人達に潤うて行くという私は助かりがね、金光様の御信心だと。そういう心がどういう心かというとです私は神心だからだと思うです。
いよいよ信心によって深さが増してくる、ね、広さが出来てくる。そこから生まれてくるところのいわゆる神心の内容というものがそのようにして出来てまいりますから、黙っておってもです人が助かる。最近言われるところ黙って治めるとい言うような働きが生まれてくるのです。ね。達磨さんやらお釈迦様やらの例えば親鸞上人様やらのではです、もう絶対黙っておって治まらないのです。治まらないというかそういうおかげになってこないのです。自分自身が。まあいうなら取り澄ましたようになってしまうというか、自分だけは達観する事が出来るです。
ね。いわゆるおかげは和賀心にあるという人間の幸せにどうでも必要な、ね、幸せの全てがここに集まってくるというようなおかげなの。だからそういうおかげを下品だとかげさっかというならそれでお終いです。けれども、それを求めないものがあろうか人間、この世に生を受けておるものが。ね。そういうものが可笑しいのだという私はそういうおかげが頂けてこそ初めて安心が生まれてくるのであり、その安心があの世にももっていけれるのであり、もうあの世でも助かりの絶対という事が言えれる。まるきり騙されておるような感じがする。この世で仕方はないけれどもあの世で助かるのだとどんな悪人でも助かるぞと、南無阿弥陀仏さえ唱えらればあの世でも助かるぞと、まるきり騙されておるような感じがする。本当か嘘か死んでみなければ分らんけれども。
けれどもそれでは心もとない。私共は心で本当に自分が助かっておるというのは心だけではないその心に伴うところのいや、人間の幸せの全てがです整うて来ると言う事。そういうおかげが頂けれるのが私は神心を目指す人達の上に現れてくるおかげだと思うのです。かわいいと思う心が神心じゃと。可愛いと思う心であって、それでどうこうと言うのではない。それこそ可愛いと思う心がある場合はいよいよ、黙って祈るという事になるでしょう。ね。
事に直面した時、例えばははあ、こういう心があったんではおかげが頂けないはずだというものを分らせて頂くところから、それが改まれていく取り除かれていく。ね。いよいよ心が広がっていく。今日の御理解の中に、私共は広い広い心を頂きたい。それで、広い心を頂きたいだけではいかん。広めていかなければならん。広めて行くためには必ず障害がある。その障害を難儀に直面した時等を、それを直感する、直に。だからそれが取り除かれる。そしてまた広がっていく、また障害がある。それをまた取り除いていく。もう限りない広さを願わせてもらい、祈らせて頂くところからです広さをいよいよ増していく。ね。
そういう深い心広い心、または限りなく清まっていく麗しい心というものの中にです、頂かせて頂けれるのがおかげであり、いよいよ広い大きなおかげになってくるのである。もう、金光教の信心ではね、広なりゃ広いおかげが広なってくる。ね。深まりゃいよいよおかげが深まってくる。これが伴うのが私はお道の信心だと思う。それが神心の内容だとからなのです。いよいよ深くなるという事が。いよいよ広くなるという事が。神様のお心ほど深い、そして広いものはない。その深い広い心が自分の心に身についてくるから、ね、神の心を心とさせてもらうから親の心が分るから、親の心に沿う事が出来るのである。だからそこに、神の感動を呼ばないはずがない。神の喜びを受けないはずがない。
それをおかげというのである。ね。慈悲、愛とかというそれとまったく違う事が分るでしょう。神心というのは、慈悲とか愛とかね極端にいうなら、慈悲とか愛とかには御利益は伴わないけれども神心によらなければおかげが伴わないのだと。厳密に言えば色々ありましょうけれども、そのように分って頂ければよいと思うでしょう。
そこで、御理解七十四節をもとにしてでございますけれども、実は御理解七十五節、七十六節とこう続いてです、ところを一つ分って頂きたいと思う。七十五節に「人を殺すというが心で殺すのが思い罪じゃ」と。どうでしょうか、広うなる事に深うなる事に勤めておったら、ね、とても、人の心を傷付けたり、それこそ、人の心を真っ黒にするような事はもう言わんで済むのだから。黙って納める稽古。ね。人の心を傷付け人の心を殺す、それがどのくらいな自分自身の上にです、反響になってくるか、ね、目には見えないからこのように人を殺せばこの世での処刑をされるのですけれども、心で殺すのは神が見ておると仰る。そこに神様のいうならば差し引き計算に合う事になってくるのじゃないでしょうか。
七十八節に「人間は人を助けることが出来るのは有り難い事ではないか」と、今度はその次ぎには殺すのではなくて助けるということになっておる。助けるというもの、自分の手を下すとか自分が物を挙げるとか金を恵むというのではなくてです、それこそ、黙って助けていけれるのがお道の信心。そういう働きになってこなければならん。人を傷つけることがなく、だけではない、人を助けるということがです、私共の深い、又は広い又は限りない美しい心からです、ね、そういう働きが生まれてくる。傷つけるところではない殺すところではない、助ける。傷ついておるならばそれを、ね、暖かくその傷を癒してあげれるほどしのものというものは形ではない自分の心で出来るのがお道の信心でいう神心なのだ。というほどしにです、いわばもうこれは絶対のもの。金光教の信心でなからなければ頂けない。ね。
しかもです、私共が日々様々な人間生活の中にね、良し悪しを捨ててとか諦めてとかといったようなもういうならば消極的なものではないということ。しかもんならそれをです、良し悪しを捨てるとか諦めるとかということは非常に難しいこと。そりゃ捨ててしまうということは大変難しいこと。お釈迦様が奥様も捨てられた。子供も捨てられた。(?)も捨てられた。ね。達磨さんでも七年間も壁に向かって座っておるのですから、人間的いうならば楽しみことというものは全然味あわなかっただろうと思う。そして自分だけはそこに悦に行っておるほどしの心は開けることは開けるけれども、それを仏教的悟りだと私は思うですね。けれどもそれはです、人にはうるわない。それを求めてくるものには私はこげんしてこういう心を開いたちということは教えてやる事は出来るけれども、ね、例えばなら家内やら子供やら、実生活の上に必要なお金でも着物でも住まいでもです、より素晴らしいなっていくという働きになっていない。だからそれをげさくなというならそれでお終いだというわけです。
けれどもそれを願わないものがあろうかと。それをいらんというならもうそれこそ親はこんな悲しいことはなかろうと思う。それこそおかげはもう降るようにあっておる。人間の幸せになる必要なもの一切がそれこそ降るようにあっておるのを私共の心で受け止めていこうというのが金光様の御信心なんだ。なら、その受け止める心というのは、どういうことか、ね、いわゆる和賀心。和らぎ賀ぶ心。その和らぎ賀ぶ心をいよいよ頂かせて頂く為に、いよいよ深まろう、いよいよ広まろう、いよいよ、限りなく美しくならせて頂こうという精進をさせて頂く。もう日々の生活を踏んまえての信心。家内子供をゆうしながらの信心。
これは私共でも修行時代に思いましたですね。もうあの、梅林寺のお坊さんあたりが、あの( ? )深い饅頭傘をかぶって修行して回っておられるのを見たりすると、ああいう修行が出来たらどんなに楽だろうかと自分で思った時代があります。もう、もし家内がいなかったら子供がいなかったら、親がいなかったらああいう生活に入れたらどのように自分の思いの信心修行が出来ようかと思うたけれども、金光様の御信心には親をようし、家内を持ち、しかも、子供達をかかえながら、頂いていく信心修行なのですから、それはもう、難しい修行であったですやはり。目の当たりにそれを見たり聞いたりしていかなければなりませんから。けれどもなるほど、金光様の御信心の一番素晴らしいところはここだと分かった。(?)生活というかね、山の中に隠れてしまわなければならんとか、ね、もうあれもかれも捨てて忘れて例えば座らねばならんといったようなものではないということ。ね。その中から我情を外させてもらい、我欲を外させてもろうて、なるほどわが身は神徳の中にあるのだなあ、その神徳の中にあるのだなあという事がです、人間おかげを頂かなければならんのだ。しかもその働きというのは一分一厘間違いのない働きの中にです、神様の働きの中に例えば昨日の、佐田さんところのお祭りにそれを感じることが出来るでしょうが。
お互いが日々本当に神様の一分一厘間違いのない働きには恐れ入ります。その恐れ入った生活をさせて頂けれるところにです、ね、なら、御大祭なら御大祭、それこそ、置いたものをとっていくようにおかげを頂くかと思うたら、さあ後二日で大祭だということになったらそれこそ、反対にあてが違うてきてから、右と願えば左左と願えば右といったような形になったけれども、それを私が昨日一昨日でしたかね、佐田さん達親子に申しましたように、そのことも神様の一分一厘間違いのない働きよと私は申しました。ね。
★神様にそのことをお願いさせて頂くと瓢箪のこう中のこびれておるところ。ね。いうなら、中をこう締め上げてくださるところ、そこに真っ赤な赤い房を作ってくださるところを頂いた。なるほど、のっぺら坊のごたる瓢箪ではどうにも出来ません。ね。中がこうくびれておる。そこに締められるというてもです、ね、例えば(?)締めるというてもです、それは、氏子可愛い、よりもっと素晴らしいおかげを下さろうとする神様の働き以外にはないのである。ね。そして、例えば時間ぎりぎりにです、七時のお祭りというのに、六時にあの、(?)まいりました。もう、一分一厘間違いのないその働きの中に昨日のお祭りが奉仕された。ね。そこで、ね、良しと思う悪しと思うということでも一切があれもおかげこれもおかげであると分からせて頂く生活。それが、金光様の御信心を本当に頂いた人の生活だと私は思うのです。
ね。しかもそういうおかげをです、黙っておかげを頂いていく。しかも例えば二日間の間に佐田さん達一家がもうこれはどこに神様のご都合があるだろうか、どこに間違いがあるならこういうことであろうかと例えば自分の心の中のおかげの障害になるものを一生懸命にその、見極めようとしておられる。ね。そして、それが取り除かれる所の働きということがです、日頃清まる事に努めておらなければそれすらが分からない。ね。はあ、こういうことではなかろうかと、いうならば例えばその二日間なら二日間の間に白真剣ないうならば反省がなされる。ね。改まりがなされる。という、おかげになってくる。
あちらの、佐田さんの若奥さんの皆さんもご承知のように信心、あのような熱心な信心が出来る。もうだからおかげを頂いておるという事がもう本当にそれを人に伝えなければおられない。いうならば(?)爽やかである。私共の西岡さん達がそうです。実に(?)爽やかである。だから(?)ためにおかげを落とす事がある。私共の知っておる先生ににはあもうお話お説教ならもう見事それでも人は一つも助からんという先生は沢山知っております。ね。そこで私共は佐田さんの奥さんにあなたは黙りなさいて。それはもう、この有り難いというのは言われんち言うことはもう大変な修行だと思うです。ね。けれどもです、それはそれこそ黙って治める、黙って治めるということはいよいよ黙って神心にならせて頂くということ。黙っておる間にいよいよ深うなる広うなるということなのです。
ね。お話の出来ない人はもうお話をせんでよか。先日も一昨日も西岡さんが晩の御祈念をしておる。その次の晩も又、西岡さん。私が、久保山先生方に、どうした風ねとこういうた。恐らくは他のものはお話するとが苦手なんです。さあ、あなたが上手じゃけんあなたがいっちょ御祈念してください、あなたがお話してくださいと言ったのじゃなかろうかと思う。そんな事せんでも私が晩の御祈念をするよち私が怒りました。私はしようごとなかけんあんただんに任せておるのじゃないよち。稽古させて頂きよるとよち。お話が上手だけでは絶対人は助からん。自分が本当に体験して、自分自身がそこからにじみ出るようなお話であってそれが人にそれが伝わっていくのである。人が助かることになるのだと。なら、私が佐田さんにお話を止めなさい。人に話をすることを止めなさい。言葉少なくなりなさい。あれほどしの信心内容も持っておられるけれども、私はこの人はここをおかげ頂かなければいけんと思うたからそれをそう言うております。
そこから成る程黙って治められるというか、ね、私は人間のこれは自分自身それを思います。本当に言葉少なくなった時には自分自身が助かっておる時です。私が例えば激しい言葉で一生懸命説く時にはまあだまあだそれは自分に足りないものがあるから、このように一生懸命になるのです。私が充実した時にはこんなに激しい言葉を使わなくてよい。自分が激しいことばを使わねばならん時に、いよいよ自分が助かっていない時だと私は思うのです。
ね。だから御理解でもそれこそぽつんぽつんとですね、聞いてもらうような時が一番私が充実しておる時なんです。してみると今日あたりはこのように熱してきたからですね、充実していないということになります。そう、本当そうなんです。ね。それでも説いておる事は嘘ではないです。ですから皆さんにも分かってもらい、私は分かっておるのだから皆さんもここが分かってもらったらと思うからついもうそれこそ、卓を叩かんばかりにして皆さんに聞いて頂くわけなんですけれども、本当にそれこそ、三代金光様じゃないですけれども、どんな、難儀な問題を持ってきても「はいはい」と仰れば人が助かったというほどしのですね、内容を目指してですね、私共でもやはりおかげを頂かなければならないと思うです。
今日は「かわいいと思う心が神心じゃ」とということをあいすまん事ですけれども、仏教とかキリスト教の例をひいてね、いうならばそれが素晴らしいというならそれでいいけれども、金光教の素晴らしさはそれなんだと。金光教の素晴らしさをなら、ある宗教の人達はそれはなら、いうならば、低級だと悪口を言う人たちもあるのです。ご利益を頂くということ。けれでも、このような心の状態になればこういうおかげが受けられるということを頂いて初めて私は生まれてくる姿勢の安心でなからなければはあ、はあこの調子でいきゃああの世でも極楽にいけるぞと言うことに確信が持てると思うのです。でなからなければ嘘だと思うのです。ね。慈悲を説き愛を説く宗教と。金光教では神心を説くと。その神心の内容はいよいよ深くなる事。広くなること、そんなら深くなるため、広くなるためには限りなく清まって行く事のためには昨日、一昨日から昨日にかけてお話しましたね
どうぞ